グッチの歴史
栄光と失墜、そして再生
1881年 | GUCCI創業者、グッチオ・グッチがフィレンツェで誕生。 グッチオは故郷を離れ、蒸気船の助手として働きながらロンドンに辿り着きました。 ロンドンでグッチオは王侯貴族御用達ホテルであったサボイ・ホテルに就職。 その後、皿洗いから一階のウェイターに出世し、王侯貴族の立ち居振舞いを間近で見る事で、 彼らの持ち物や価値観などを学びました。この経験は後の高級ブランドビジネスに大いに活かされる事となります。 |
1901年 | グッチオ帰国。 |
1922年 | フィレンツェのパリネオ通りに自分の店を開き、翌年「GUCCI」の店名を掲げる。 |
1938年 | ローマに新店舗をオープン。 イニシャルであるGを2つ組み合わせた「GGマーク」が誕生。 |
1953年 | グッチオの反対を押し切る形で息子のアルド・グッチがアメリカ・ニューヨークに支店を出しました。 同年夏グッチオ・グッチ死去。 グッチオ亡き後は、息子アルドが経営の中心となり、グッチオの4人の息子、アルド、バスコ、ウーゴ、ルドルフォらによって運営されます。 |
1960年代 | ロンドン、パリ、パームビーチに新店舗をオープン。 GUCCIは世界の主要都市で成功を収め、更なる発展を遂げていきます。 |
1970年代 | 香港や東京といった極東アジアへ進出。 順調に成長を続けるように見えましたが、 一転、グッチ家のお家騒動が勃発。更に製品供給過多によるブランド力の低下や不況等で深刻な経営危機に陥ります。 |
1979年 | 一時失墜したグッチはオランダのアムステルダムに本社を構え、グッチ・グループ(Gucci Group NV)社として再出発。 |
1980年代 | プレタポルテに進出。 |
1989年 | ドーン・メロウが副社長兼クリエイティブディレクターに就任。 彼女はジェフリー・ビーンのデザインチームにいたリチャード・ランバートソンを採用。 市場に溢れ過ぎた商品の種類を絞り、抜本的な改革に乗り出しました。 伝統的なデザインに現代的なアレンジを加えたバッグを発表して話題となり、グッチに復興の兆しが現れ始めます。 |
1990年 | トム・フォードをレディスのデザイナーに採用。 |
1993年 | ルドルフォの息子、3代目マウリッツィオはバーレーンの投資ファンド、インベストコープ(Investcorp)に全ての保有株を譲渡。
これによってGUCCIは70年に亘るファミリー企業体制に終止符を打つこととなりました。 インベストコープはグッチ・アメリカの社長だったドメニコ・デ・ソーレをCEOに据え、再建に執りかかります。 |
1994年 | トム・フォードがクリエイティブ・ディレクターに就任。 トム・フォードはそれまでの商品を再構築して、 時代にフィットしたものを次々と世に送り出します。 彼は数々のデザイナーに与えられる賞を獲得し、世界で最も注目されるデザイナーとして活躍しました。 彼の手によってグッチは倒産の危機から脱出し、世界屈指の人気を誇るブランドへの復興を成し遂げます。 |
1999年 | セルジオ・ロッシを買収。 |
2000年 | イヴ・サンローランを買収。 イヴ・サンローランのデザインもトム・フォードが手掛ける事になります。 |
2001年 | アレキサンダー・マックイーン、バレンシアガを傘下に治める。 ボッテガ・ヴェネタを買収。 |
2004年 | CEOドメニコ・デ・ソーレとトム・フォードが退任。 ドメニコ・デ・ソーレの後任にイブ・サン ローランの社長マーク・リーが社長兼CEOに就任。 トム・フォードの後任として、レディス部門のクリエイティブ・ディレクターにトム・フォードの片腕だったアレッサンドラ・ファキネッティが就任。 メンズ部門にジョン・レイ、アクセサリー部門にはフリーダ・ジャンニーニが就任しました。 |
2005年3月 | アレッサンドラ・ファキネッティが、わずか2シーズンでマネージメントの不一致により辞任。 レディス部門はアクセサリー部門のフリーダ・ジャンニーニが兼任することになりました。 |
2006年2月 | メンズ部門のデザイナー、ジョン・レイが「個人的な理由」で辞任。 フリーダ・ジャンニーニがアクセサリー、レディスに加えメンズラインも担当することになり、グッチ全体を統括するクリエイティブ・ディレクターとなりました。 |
2009年 | パトリツィオ・ディ・マルコがマーク・リーの後任として社長兼CEOに就任。 彼の指揮のもと、グッチはハイファッションと魅力的なスタイルと共に、歴史に名高い由緒あるイタリアブランドとしての伝統とタイムレスな価値を強調しています。 |